engelico's blog

『上』から伝えられるメッセージに対して 私が「感じたこと」「思ったこと」「考えたこと」を投稿しています。

自分の思うように 事が運ばない

 

自分の思うように

事が運ばないことがあります

 

それは 単なる偶然なのかもしれませんが

必然として『上』に止められることも

あるようです

 

チャネリングの際メッセージを伝えてくれる存在を

私は『上』と呼んでいます

 

でも それが必然であったということは

後になって気がつくもので

その時点では

「なぜ 思うようにならないの」と

思い悩んだりします

 

解答がわからないから

生きる意味があるのでしょうが

少しくらい 

「ヒントをくれてもいいのにな」と思います

 

自分が何のために 

そのような経験をするのかくらいは 

こっそり教えてくれてもいいのに…

 

『上』としてみれば

正解の分かっている数学の問題を

解いたところで

確認には なるかもしれないけれど

そこには 何の楽しみもない

 

試行錯誤しながら

「あーでもない」 「こーでもない」と

答えを導き出すのが

数学の楽しさであり 醍醐味でもある

 

解答を導き出すことに

意味があるのだから

答えを知ったうえで何をしても

何の意味もなさないのでしょう

 

『上』の言わんとすることは分かりますが

「ヒントくらいは…」

と思ってしまうのが 

人間といわれる所以なのでしょう

 

『上』がいうところの

『人生を楽しみなさい』の楽しむ

数学の問題の解答を導き出すまでの

試行錯誤する過程をさしているのですから

私たちが思うところの

楽しむとは 残念ながら

かなり かけ離れているようです

 

「思うように事が運ばない」

ということも

事が運ばないことで

私たちは足止めを食らいます

 

そして 立ち止まり

「何でだろう」と考えます

 

『上』からするとその行為が

私たちにとって必要な経験で

その経験をすることが

『上』からすると人生を楽しんでいる

ということになるのでしょう

 

このような感覚で

人生を楽しむを理解するには

肉体のある なしで

かなりの隔たりがあり

この大きな溝を埋めることは

困難を極めると思います

 

分からなければ

『もう一度出直してきなさい』と

『上』に言われそうですが

肉体を失ったときは理解できることでも

肉体を身につけた途端に

分からなくなってしまうのですから

仕方のないことです

 

きっと 魂の成長に伴って

理解できるようになる日が

やってくるのでしょう

 

自分の思うように事が運ばなくても

『上』からすれば

人生を楽しんでいるということに

なるのなら

そういうことにしておいて

思うように事が運ばないことを

楽しむのも良いのかもしれません

 

そうはいっても

やはりスムーズに事が運ばないと

私はイラッとしちゃうと思います

 

やっぱり 人間だもの(笑)